01 / ブレイクアウト@
一九四X年九月。
アイザワは狭い部屋の壁に背を預けて座っていた。遠くで扉の開く音がしたのと同時に、右手の人差指で床を叩き、その後も一定のリズムで床を叩き続けた。そうして指で床を叩きつける事六二三四回。目の前にあるドアの上部に付いた鉄格子から顔が見えた。
「おとなしいな。良からぬ事でも考えているのか?」
「そんなんじゃありませんよ。ちょっとまいっちまってるだけです。」
アイザワは額に手を当てながら答えた。
「俺たちよりも良いもん食ってるくせに、生意気なことを言うな。」
顔が鉄格子から消えた後、耳を澄ませ足音を聞く。一歩、二歩、三歩、四歩、五歩と歩いた後に止まり、少し間をおいて、「良し」という声が聞こえた。
彼は今日二人目の見回りだ。今回は、扉を閉めてから自分の所まで来る間に、六二三四回指で床を叩いた。つまり、彼が自分のいる部屋まで来るのに約十分かかったことになる。見回りが一周した合図は「ガガッ」という音で、これは入り口のすぐ傍に置かれた椅子を引いた音である。
彼らは見回りを行う際、部屋を見る度に悪態をついていく。そうでもしなければやっていられないような仕事なのだろう。見回りは一人につき十回以上行い、その間隔は人によってまちまちであるため、見回りの回数、間隔、部屋を見た時にかける言葉の三つで、その人物の性格が大体分かってしまう。
ただ、見回りにかける時間はその時によってばらばらである。これは、見回りをした際にその部屋にいる人物が不審な行動を取っていたりすると、執拗に質問し続けたり、ドアを蹴ったりして時間がかかるからである。逆に、どの部屋でも不審な行動が見られなかった場合は比較的早く終わるし、信用されている人物の部屋は見回りがされない場合もある。
さらに、彼らは日に四回の交代を行う。この交代でも約十分の時間がかかり、その間見回り役がいなくなる。
アイザワは頭を壁につけ、ドアの鉄格子を見た。
アイザワは時計屋の子として生まれたが、戸籍はない。三ヶ月前に民家に押し入り金目のものと食糧をかっぱらうという窃盗の罪を犯した。ただ、事件はそこで終わらなかった。アイザワは、駆けつけた警官を殴りつけて怪我を負わせたのだ。これによって窃盗罪は強盗致傷となってしまった。その後、十一年の懲役を言い渡され、現在いるA刑務所へと収容された。
監獄内は劣悪な環境であった。看守の待遇は冷え切ったものであったし、暴力による制圧も珍しくなく、風呂にも入らせてもらえない。それに加え、真冬には獄中の気温が零下二十度を下回ることもあると教えられた。
ただ、唯一救いだったのは、まともな食事が出てくることであった。今は戦争中であり食糧は不足していたが、ある脱獄事件を機に、全国の刑務所で脱獄事件(多くは未遂に終わる)が増えた。政府は囚人の脱獄を未然に防ぐため、囚人全員に貴重な食べ物であった白米を出した。それに引き換え看守が食べるのは麦飯で、酷い時には、彼らは何も食べることができなかったのだ。
看守にも生活があるものの、アイザワにとってそんなものはどうでもいい事であった。溜まったストレスをぶつけられるのも、死ぬほどの寒さの中で生活するのも、ただじっと時が経つのをこうして待つのも御免だった。
アイザワは投獄されてからすぐに脱獄を考えるようになった。この劣悪な環境から脱するために、部屋からで出られる時は、どんな小さなことも見逃さないように、刑務所内外を観察し、看守の行動パターンやその時間を測った。
光明が見えたのは一ヶ月前のことであった。その日の晩に、突然ひどい雨が降り、雷も鳴り始めた。最初の雷が鳴ってから数分後、轟音とともに獄中の電気が消えた。アイザワが投獄されてから雷が鳴る程の雨が降ったのは三回。その全てで必ず停電が起きた。二回目の時には、雷の音が聞こえ始めてから十分程で停電が起こり、三回目の時には五分も経たないうちに停電が起きた。一回目の時もそれほど時間がかからず停電が起きたのを覚えている。
アイザワは、停電からどれくらいの時間で電気が復旧するかを測っていた。二回目、三回目共に十分程度で電気は復旧し、その間獄中は真っ暗だった。また、看守の机の近くにランプがあり、停電によって暗くなっても監視の目が緩むことはない。しかし、停電が丁度看守の交代時間と重なった場合はどうだろうか。きっと交代時間が伸び、ここの監視をする者が不在となる時間も伸びるに違いない。
ここまで考えたが、アイザワにはその時間内にこの独房から脱出する手段が思い当たらなかった。獄舎は木造、床はコンクリート製であり、穴を掘って逃げる事はできない。ドアも木製であり、上部に鉄格子が枠とともにはめ込まれている。過去に脱走を企てた者がいたが、この鉄格子を外して逃げた例はなかった。例えこの鉄格子を外したとしても、大人がその隙間から出るのは困難である。
脱走方法として、自力で独房から出る案は却下した。看守に独房から出してもらい、尚且つ獄舎を誰にも気づかれず出て、さらに、四メートル近くある塀を越えなければならない。しかし、囚人であるため刑務所内の移動には制限が掛けられており、移動できる場所には大体看守がいたし、窓が一ヶ所も設置されていなかったり、制限区域内で囚人が外へ出られるのは一ヶ所だけだったり(そこにも常に看守がいる)と、簡単に外へ出られるような構造になっていない。信頼されている囚人でさえも、その移動制限の外には行かせてもらえないため、アイザワは刑務所の構造を十分に把握することができなかった。
ただし、特殊な事情があった時だけ、囚人が制限区域外に行けることになっている。例えば体調が悪くなった場合では、移動制限区域外にある医務室に行くことになる。その場合、囚人には手錠が掛けられ、看守二名に連れられて移動することが義務付けられている。これはアイザワが投獄されて一ヶ月が経った頃、体調不良で実際に体験したことである。さらに、看守の腰には拳銃がぶら下がっており、不審な行動を取ればすぐに拳銃を手に取ることだろうし、下手なことをすれば自分の命も危ない。ただ、以前通った医務室までの道に、ガラス窓があったのをよく覚えていて、そこがアイザワの知る、唯一看守が監視していない外へ通じる場所であった。
その時、突然明かりが消えた。消灯の時間になったのだ。
翌日、起床時間になって起こされたが、朝食がなかなか来なかった。すると、獄舎入り口の扉が開いた音がして、何人かの足音がこちらに近づいて来た。
ドアの鉄格子から外を覗くと、囚人服を着た“がたい”の良い男が二人の看守に挟まれて歩いてきた。囚人の男は両手を後ろにやり、その手には手錠がかけられている。アイザワの目の前の独房で止まると、看守の一人がドアを開けた。
「ここが今回の独房ですか。ずいぶんとまぁ・・・」
囚人がそう言うと、もう一人の看守が男の背中を蹴って独房の中に入れた。
「お前は特別に、手錠を付けたままにしてやるよ。じゃあな。」
看守はドアを閉め、鍵を掛けた。看守が帰ろうとした時、男の顔が鉄格子に現れた。
「ちょっと待ってくれよ。後ろ手で手錠を掛けられた状態で、どうやって飯を食えと言うんだ。」
看守たちは振り返ると、笑いながら答えた。
「飯はちゃんと持ってきてやる。食器に顔を突っ込んで、犬のように食べるんだな。」
それだけ言うと、看守たちは去って行った。
手錠を掛けられたままということは、この囚人が暴力を振るうおそれがあるか、逃走の気配が濃厚であるかのどちらかである。体つきから考えるに前者だと思うが、後ろ手で手錠を掛けられるとは哀れな奴だ。
再び扉が開いた音がして、各独房に食事が配られた。当然対面の独房にいる囚人にも配られたが、さて、どうやって食べるのかと思っていた時、「バキン」という音がして、鉄格子を揺らしながら叫び出した奴がいた。対面にいる囚人である。
「貴様、何をやっている!」
看守が駆けつけると、男は身を引いた。看守は独房の中を見て呆然としていた。
「お前、手錠はどうした?」
「外しました。見ますか?」
鉄格子から看守が受け取ったのは、二つの輪を繋いでいる鎖が千切れ、輪のつなぎ目が壊された手錠の残骸だった。看守は顔を紅潮させながらその場を立ち去り、数分後に二人の看守を引き連れて戻って来た。手に持っている黒い手錠は先ほどのものより大きく、重みが感じられる。連れてきた看守の一人が、拳銃を男に向けた。
「後ろを向け。」
その指示に男が従うと、黒い手錠がまた後ろ手に掛けられた。
「特別製の手錠だ。外すことはできないだろうが、次にまた同じような事があれば、誤って拳銃の引き金を引いてしまうかもしれん。気をつける事だ。」
そう言って看守は乱暴にドアを閉め、鍵を掛けて立ち去った。アイザワは身を引き、壁に背を預けるようにして座った。それにしても、手錠を破壊してしまうなんて、どれだけの馬鹿力なのだろうか。自分の腕を見て、その手首周りの細さを嘆いた。
あの男の存在は、アイザワの脱走計画の邪魔にもなりかねなかった。これからあの男がさらに面倒な行動に出れば、奴専用の監視が付くだろう。独房が離れていれば気にしない事であるが、自分の目の前に看守が常時いるような事態は勘弁してほしかった。
「ガガッ」という音がし、次いで扉を開ける音がした。看守の交代時間になったのだ。看守が獄舎にいない時には、囚人たちは鉄格子から顔をのぞかせて他の独房の囚人と話始める。いつもなら話しかけられても鉄格子に顔を出すことすらしないアイザワだったが、今回は鉄格子に顔をのぞかせていた。
「おい、新入り。」
返事はなかった。
「聞こえてんのか。さっきここにぶち込まれたお前のことだよ。」
声を大きくし、鉄格子をガンガン叩きながら言ったところ、興味を持った他の囚人たちが、鉄格子に顔をのぞかせ始めた。
「聞こえて、いるさ。何の、用だ?」
言葉の区切りがおかしかった。というより、息が荒くなっている気がした。
「お前、何やってんだ?」
「腕立てを、している。いざと、いう時、頼れる、のは、自分の、体だけ、だからな。」
少しは学のある奴だと思っていたが、どうやらただの馬鹿らしい。あの少ない食事で十分な筋肉などつくわけがない。皆それを分かっていて、なるべくエネルギー消費を少なくした生活をしているのだ。
「筋肉をつけて、そのドアでも壊して脱獄するのか?」
この皮肉に対して、他の囚人たちもクスクスと笑っていた。
「ああ。機会が、あれば、いつでも、してやるさ。」
男から返って来た返事に、聞いていた囚人は大笑いをし始めた。
「この刑務所じゃあな、過去に何回も脱獄事件が起きている。頭の切れる連中が、ありとあらゆる方法で刑務所の外にでようとしたが、ただの一回も成功した事はない。お前みたいな奴が脱獄出来たら、そいつらが浮かばれねぇよ。」
男は、これ以降何を言っても返事をすることはなかった。獄舎には再び静けさが戻り、他の囚人たちも、アイザワも鉄格子からのぞかせていた顔を引っ込めた。
翌朝、起きると雨が降っている音が聞こえた。この時期になると、雨が降っただけで気温が一気に下がるため、獄舎内には冷たい空気が流れていた。昨日は騒がしかった対面の男も、あれ以降大人しくしている。ただ、一日経って思い返してみたとき、奴の言葉におかしな点があることに気が付いた。昨日男は言った。
「“腕立て”を、している。」
男は後ろ手に頑丈な手錠が掛けられているため、腕立てというのはおかしい。まさかあの手錠まで外してしまうとは考えられないし、あの馬鹿な奴のことだ、腕立てと腹筋の違いもろくに教えられずに育ったのだろうと思った。
しかし、昨日聞いた時点でそんな些細な事にも気づけないとは・・・。自分の頭が、この刑務所を包む異質な空気によって狂わされてきている気がした。
上を向いて吐いた息が白く、空気の冷たさで身が震えた。囚人には薄い毛布が与えられており、厚手のものと取り換えられるのは十一月になってからだ。アイザワは不安を感じていた。今の時期でさえ雨が降っただけで気温が零度近くまで下がるというのに、果たして冬が越せるのか?聞いた話によれば、A刑務所では冬の間に何十人もの死者が出るらしい。真冬の寒さからくる凍傷と、不衛生な環境によって発生する菌が体を蝕むのだ。
アイザワは目を閉じ、瞼の裏に自分の死体が浮かんだ瞬間、目を開けた。汗が頬を伝い、冷たい空気が汗の通った所を刺激する。
不安は投獄された時からあった。初犯であったため不安を感じるのは当然のことではあったが、この刑務所で聞く話は不安を増大させる一方であったため、今では誰の話も聞かないようにしている。
アイザワが投獄されてから神経質に看守の行動を監視したりするのには、このような不安から“焦り”を感じたからでもある。ただ、焦りに支配されて冷静さを失うようなことだけは避けるように努めていた。これまでの人生で、焦りは悪い結果しか生まなかったし、その最たるものが今の状況である。
冷静に状況を見極め、できるだけ早くこの刑務所から出たい。刑期が終わるまでなんて待っていたら、冬を二度越える前に死んでしまう。それに、冬になったら外は雪で覆われ脱獄したとしても死ぬ危険が増すだけであるし、その前に、自分の体も寒さで上手く動かず、脱獄どころではないだろう。
アイザワは、鉄格子を見つめた。雨漏りで水滴が落ちてくるのが見えた。朝は雨の音だけだったが、今は風の音も聞こえる。再び目を閉じ、ゆっくり深呼吸する。今度は自分の死体ではなく、これまで自分が集めてきた多くの情報を思い浮かべ、目を開けた。チャンスは逃すべきではない、と自分に言い聞かせ、毛布にくるまった。
この時、彼が最も警戒していた“焦り”が、彼の全身を包んでいた。
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